HomeTravelPeru

 




さて、ひとしきり妄想に耽り、僕はようやく満足して(笑)出発した。

向かうは、「マチュピチュ山」である。

マチュピチュの写真には、遺跡の背後に山が見える。この山は「ワイナピチュ(若い峰)」という。一方、マチュピチュは「老いた峰」を意味する。

つまり、マチュピチュ山は、ワイナピチュよりも年上であり、標高はワイナピチュよりもさらに高い。(これは、登っている最中にようやく気付いた事である。初めはワイナピチュと同程度だと思っていた。)

時刻はちょうど午後1時。

地球の歩き方によると、「往復」で1時間半〜2時間程となっている。

2時間を見ても、午後3時には戻って来れる計算だ。

その後、遺跡に戻って遺跡内を散策すればよい。

体調は万全。よし行くぞ!



マチュピチュ山は、マチュピチュの遺跡から少し離れた場所にあった。遺跡にはかなりの人がいるにも関わらず、こちらは人気がなく、すこしひんやりとした空気感を持っていた。

 
 
 



登り始めてすぐに気付いたことは、「ああ、これは遺跡ではなくて、本当に『山』なんだな。」ということだ。

確かに、石段は続いているのであるが、徐々その組み方は乱れてくる。







現代の階段のように、正確な立方体を積み重ねたものではなく、自然の石に近い「立方体のような形状」の石が積まれているだけだ。

途中、石段が途切れ、獣道のような様相を示してくる。

辺りに人は1人もいない。前方にも後方にも。



やがて、高度が上がるに連れて、切り立った崖のふちを登らなければならなくなる。

うーん、まさに崖っぷち。




急なこう配が続く。

息が切れる。

汗が吹き出る。

何度も途中休憩をした。珍しい高山植物や花々、鳥のさえずりや遠くに見える山々の峰。そして、そこに差し込む雲間からの光。


 
 

 
 



また、遥か後方にはマチュピチュの遺跡が見える。

 



美しい。


美しいことは美しいのだが、ちょっときつくないか?これ。

大体、上のようなマチュピチュ遺跡は、ベストショットであって、登っている大半の時間は遺跡がまるで見えないのである。

さらに、登れば登る程、遺跡はどんどん遠のいていく・・・。


したたり落ちる汗を拭くこともなく、僕は歩き続けた。

すると、降りてくる二人組がいた。

アメリカ人のカップルらしい。

Hi,」と声をかけた。


「頂上までどのくらいかかるの?」


と聞くと、


「頂上?頂上までいくつもりか?」

と怪訝な顔。


「そのつもりだよ。」

と言うと、アメリカ人のお兄さんちょっと考えて、


「俺らは、頂上まで行ってないからわからないけど、ここからだとあと1時間半はかかるんじゃないか?」


・・・はい?

マジかよ。もう30分以上登って来たのに、あと1時間半??


「でも、頂上まで行かなくても、あと15分くらいしたところで、またマチュピチュがきれいに見下ろせるよ。まぁがんばんな。」

とのことである。


おいおいおい。

ちょっとなめてたぞ、こりゃ。

でもおかしいなぁ。

地球の歩き方には、「往復で1時間半〜2時間」ってなってた気がするけど、、

と見直してみると、


「片道1時間半〜2時間程」


であった。


「わはは!片道かよ!(笑)」

と1人笑ってみたが、内心「チーン」というかんじである。辺りには誰もいない。

通りで、みんな来ないわけだ。


そこで突然、3年前にモロッコで出会った三人組のことを思い出した。

彼らは世界一周旅行中で、マチュピチュに行った後、ブラジル、スペインを経て、モロッコに来たところで、僕と出会った。

その中の1人が、マチュピチュでの出来事として、以下のようなことを言っていた。


「二人がマチュピチュで、マチュピチュの遺跡とは全然関係ない近くの『山』に登ろうっていいだしてさ。

 俺は嫌だって言ったんだよ?遺跡を見たかったし。でも、どうしてもって言うからさ。

 それで登ってみたら、もぉーのすごくしんどいわけ。すごい時間もかかちゃって。

 で、結局時間切れでマチュピチュの遺跡自体は、駆け足で見る事になってさぁ。。

 本当に大変だったよ。」


(これだったのかぁー!!)


ようやくつながった。

彼が言っていた、嫌だったけど登った『近くの山』ってのは、このマチュピチュ山に違いない。

そして、確かに、マジでつらい。しんどい。だるい。

っていうか、一体いつまでこの石段は続いていくんだよ。


と疑問を投げかけても容赦なく続く石段・・・。





見上げると、頂上は雲に隠れていて、全然見えなかった。


「こんなに登るつもりじゃなかったんだけどな。」


そう思いながらも、ここまで来て引き返すのも、正直、癪にさわる。


「そこに山があるからじゃないか!」


と意味不明の一人言をつぶやきながら、汗びっしょりで進んで行く。

すると、また1人、白人が降りて来た。


「よお、大丈夫かい?」


よほど疲れているように見えたんだろう。

そりゃそうだ。登山なんてやったこともなければ、僕は学生時代、美術部だったんだぞ。運動なんてほとんど無縁で生きて来たんだコノヤロー。とは言わずに(笑)


「ああ、大、だい・・じょぶ。はぁ、はぁ。・・・ちょい待った。

 はぁ、はぁ。

 しかし、・・・頂上はまだかね?」


「ああ、俺は頂上まで行ったけど、そうだな。ここまで大体50分ってところだ。」


50分!)

とは、口に出さずに笑顔で返す(笑)


「でも・・・わかるだろ?登りより下りの方が早いから、あと、1時間はかかるんじゃないか?」


1時間かよぉおお。)

今度は顔に出た(笑)


「マジで?そ、そうか、、がんばるよ。」


精一杯の笑顔で「サンキュー」と言った。

彼は、短く「Good luck !」と返し、去って行った。


さて、こうなってくると、マジで進退を考えた方がいいかもしれぬ。

と思った。

水もがぶがぶ飲んでいたら、なくなってしまう。

正味、あと200mlくらいしかない。

ああ、こんなんだったらしっかり水くらい持ってくればよかった。心底後悔する。

しかし、とりあえず、まだなんとか足は大丈夫だし、がんばってみるか。

大体、うかうかしていたら、帰りのバスに間に合わなくなってしまう。

行き帰りで最悪4時間だとすると、下山は17時。

しかし、山の入り口から、マチュピチュ自体の入り口までもそれなりに距離がある。

もしも、遅れた場合・・・あのハイラムビンガムロードを、徒歩で降りる?しかも、真っ暗闇の中を?



・・・ちょっとヤバい気がして来た(焦)

急がねば。

「マチュピチュで遭難しました。」なんてジョークにはなるが、泣きたくなってしまう。


さらに歩く事30分。

もう足がプルプル言い始めている。

毎日の徒歩通勤で少しでも鍛えようとしてきたが、一日1時間半程度のの徒歩では足りなかったらしい。


しかし、現実は厳しい。落ちたらララバイ♪ララバイ♪ララバイバイバイ♪の深い崖がすぐそこにある。



 



と、そのとき、足下が滑った!


「誰か助けて!」


と言っても、発見すらされない気がする。(実際は滑ってないです。妄想です。)


下の写真をご覧いただきたい。マチュピチュの遺跡はおろか、ワイナピチュまで「余裕で見下ろせる」高さまでやってきているのだ。





山側に重心を持って行きつつ、慎重に、慎重に登る。


しかし、こんな山によく石段を造ったな。

登るだけでもしんどいのに、さらに石を抱えて段上にしていくなんて途方も無いエネルギーが必要だ。



「インカ人すげぇー!」



とひたすら心の中で思った。

石段だけでもそれだけ大変なのだから、マチュピチュの街を造るのは、それはもう相当大変だったに違いないのである。


すると、前方に三人組が登っているのが見えた。女性二人に男性一人。彼らは振り返ると、「追いつかれちゃったね。」という顔をした。

Hi,」

と声をかけた。

向こうも「Hi,」と言い、笑顔で返してきた。

しかし、お互い息が上がっており、そのまま無言で登り始めた。

世間話に労力を避ける程、今は体力にゆとりがない。その無言状態は、お互いの状態をよく示していたのだと思う。


それにしても、

Hi,」

という英語は、つくづく便利だ。

とっても気軽に発する事が出来る上、「敵意がないこと」を雰囲気で示せる。

これが日本語の「こんにちは」だと、ちょっと固いか、無味乾燥な響きになってしまう。

日本語だと、「Hi,」は何だろう?

「よお!」

とか、

「やぁ!」

とかかな。そんなことを頭では考えながら、身体は黙々と急斜面を登っていく。


しばらくすると、三人組が立ち尽くしていた。

そこはこれでもか!と切り立った崖になっていて、石段もかなり無茶な作りになっている。

「階段を上がって行く」というよりも、「よじ登って行く」という表現の方がぴったりとするような場所だ。



「先に行っていいわよ。私たち、ちょっと疲れてるから。」


疲れた表情で1人が言った。


「ありがとう。でも僕も正直、疲れているんだよね。ちょっと休もうかな。」


「どこから来たの?」


「日本から。君たちは?」


「チリよ。」


そうか。白人ではないなと思っていたが、チリか。南米大陸の中でも、やっぱりマチュピチュは特別な観光地なんだなと思った。

また、同時に チリは、結構豊かな国なのかもしれないな、と思った。

彼らがどんな仕事をしているのかは分からなかったが、僕と同年代かそれよりも若いくらいだったからだ。

旅行というのは、結構金がかかる。



しばらくすると、上からまた降りてくる人がやってきた。

しかも日本人である。


「あ、日本人の方ですか?」


「そうです。」


「あのーあと山頂までどれくらいでしょう?」


「そうですね。30分くらい、かな。・・・疲れてます?」


「見ての通り(笑)」


「あ〜そうすると、30分だと着くか着かないかですね。」


「そうですか・・・結構まだありますね。」


「でも、頂上きれいですよ。雲かかってますけど、たまに雲が切れてそこから見えるマチュピチュがすごい。」


「そうですか^^頑張ってみます!」


そうだ、あと30分。頑張ってみようじゃないか。

日本人に別れを告げ、またチリの三人組を追い抜かし(!)、僕は石段をさらに登って行った。


もはやマチュピチュの遺跡は、遥か彼方のマボロシのようである。





極限状態。


そんな言葉には、まだまだ程遠いのだろうけど、少なくとも日常生活ではここまで頑張って登ったり、よじ登ったりはしない。


汗が噴き出し、のどがカラカラでも、できるだけ水を消費しないように、口の中にためて、味わって飲む、なんてことはしない。


しかし、こんな非日常のプチ極限状態は、なんだか一人旅には「必須なこと」であるように思えてきた。

ツアーでマチュピチュに来る事だって、当然、可能である。


その方が、もしかすると安い場合もあるだろう。

当然、安心だし、宿の手配や足の手配など、ちょっと面倒なことは全部お膳立てされている。

快適である。

しかも、恐らくはツアー仲間ができたりして、その楽しみもあるのだろう。


だから、それはそれで全然いいのだが、その一方で、こういう「みんながみんなやりたいとは思わない、ちょっとしんどいけど、でも絶対に強烈に思い出に残る体験」

ってやつは、なかなかできないだろう。

だって、「みんながみんなやりたいとは思わない」内容なんてツアーに組んだら、それこそヒンシュクである。

ツアーは「最大公約数の楽しみ」を追求しているし、追求してしかるべきだ。


しかし、僕には僕の「例え人と共有できなくても、僕個人が、個人としてやってみたいこと」というのが常にある。

きっと、この訳の分からない山登りもそのうちのひとつなんだろう。


3年前に出会ったモロッコでの三人の話。

それが、2009年4月28日の僕に、突然直結するなんて、考えてもみなかった。

しかし、そんな過去のお話が、今の僕につながる、という状況自体が、まさに「人とは共有できない楽しみ」と言えるだろう。


僕は唐突に、元ELLEGARDENの細見武士を思い出した。


「いやぁ結構、苛烈に生きたなぁ。と。」


初ソロアルバムの発表を前に、ロッキンオンJapanのインタビューで語った一言である。


「苛烈」


という言葉。僕は気に入った。

「苛烈に生きる」ってのは、どういうことだろう?

僕はこう思う。

自分の力を出し切って、正直に、自分のやりたいことを、とことんまで突き詰めて、エネルギー全開で、全身全霊打ち込んでいるっていう姿。

僕はそんな生き方をできているだろうか?

いや、そうではない。

必要なのは「問い」ではない。

僕はそんな生き方を「したい」のである。

それは仕事でも、旅でもだ。

そして、僕は今、正直に言って、「苛烈」に歩みを進めている。


肩で息をしながら、震える足を拳で叩きながら、僕はそんなことを考えていた。


すると、徐々に視界が開けてきた。


 



「ああ」


僕は、理解した。



「登ったんだな。」



僕はマチュピチュ山の頂上にいた。


時間は3時を回っていた。

2時間きっかり。

2時間の山登りなんてたいしたことないと言われてしまうかもしれない。

しかし、体力の少ない僕には相当頑張った2時間だと言わざるを得ない。

(ワイナピチュを登ったことがある人は、あれに近い急斜面が延々と2時間続くと想像していただければよい。大体倍の時間がかかる。)



確かに、僕は雲のちょうど真下にいた。

頂上には小さな日よけのような小屋があった。






360度ぐるりと見渡せば、マチュピチュの周囲を守る山々と雲との境目が見える。




そして、遥か下方に、マチュピチュがあった。



雲が僕の周りを取り巻いて、絶えず揺らいでいる。僕はただじっと、雲が途切れるその瞬間を待った。

来た!





ああ、最高だ。


「ここはひょっとすると、天国に近い場所なのかもしれないなぁ。」


そんなありきたりな考えがストレートに出て来てしまう程、その場所は素晴らしかった。

滑落して本当に天国に行く訳にはいかないから(笑)、あくまでも「近い場所」ってことでよろしくしたいのだけれど。


僕は山頂の空気を吸い、しばらくその場に佇んでいた。


誰が積んだのか、小さな石の塔がそこにはあった。




「ははっ。まるで、The world is mineのマーキングみたいだな。」


そう思った。

(これはほとんどの人には分からない感覚だと思う。The world is mineは庵野秀秋や岩井俊二に敬愛された(かつ売れなかった)漫画だが・・・

 いや、これ以上説明するのはやめておこう。知りたい人は、僕と直接会った時に聞いてみてほしい。)

 

山頂の空気を吸い、再び元気を取り戻した僕は行きに来た道を引き返した。


帰りは確かに早かった。

よくこんな道登って来たなと思いながらも、足取りもしっかりしている。

僕は地球の重力に三角関数をかけた力に後押しをされながら、軽快に進んでいった。


しかし、不思議なことに追い抜いたチリの3人組とはついに出会わなかった。

恐らく、途中で諦めて帰ってしまったのだろう。

僕は、このとき、これまでマチュピチュ山で出会った人数を数えてみた。


わずかに7人である。


午後1時から4時までの間、自分も含めわずか8人しかマチュピチュ山を訪れていないことになる。

今日何人がマチュピチュに入場したのかわからないが、 マチュピチュは一日2500人までを人数制限の目標にしているらしい。

多い日には3000人近くが入場するらしい。


僕の後にマチュピチュ山を登り始める人はいないだろう。(今から登り始めたら、よほどの体力が無い限り最終のバスまでに戻ってこれないはずだ)

すると、午前中に登った人も8人だとすると、一日16人しか登っていないことになる。

さらに、そのうち頂上まで行ったのは、自分を含めて8人中3人であったから、一日にして6人。


マチュピチュに入場した人数を少なめに2000人と見積もっても、0.8%の人間しかマチュピチュ山に登らず、

さらに、頂上まで辿り着くのは、わずかに0.3%・・・


マチュピチュ山の不人気具合がよくわかった(笑)


しかし、頂上からの景色は絶景だし、何より登頂した時の訳の分からない強力な達成感は何ものにもかえがたい。

時間がある人は、トライしてみるといいだろう。


(ちなみに、ワイナピチュかマチュピチュ山か?と問われると、僕は冷静に考えて、「ワイナピチュ」と答える(笑)

 理由は単純で、マチュピチュ山はあくまで「山」であるが、ワイナピチュは「遺跡」であるからだ。頂上に登って比べてみればよく分かる。

 また、ワイナピチュのふもとにある「月の神殿」やその周囲の自然は実に素晴らしいと思う。)


さて、下山した時間は4時ちょっと過ぎ。

行きは2時間、帰りは1時間、計3時間登ったり下ったりした計算になる。


また、後に知った事だが、マチュピチュ山は3050m、一方ワイナピチュは2750mで、300mの差がある。

わずか300mだが、考えてみるとマチュピチュの遺跡自体が2400mなので、

マチュピチュ→ワイナピチュは、350m

マチュピチュ→マチュピチュ山は、650m

ということで、実質的にマチュピチュ山で登る距離は、ワイナピチュのおよそ倍くらいの長さということになる。

体感的なものとしてこの数字は納得である。


マチュピチュ山で体力を振り絞った僕は、遺跡の中までは入らず、見張り小屋付近ででゆっくりと写真撮影し、17時半の最終バスで宿へと戻った。

足はもうガクガクである。

風呂に入ろうと思ったが、ベッドから身体が動かない。

どうやらこのホステルには天井にねずみがいるらしく、かりかりとうるさいのだが、

気付いたらいつの間に眠ってしまった。


9時頃になって起き出し、あわてて夕食をとりに出た。

なんとなく、深夜までレストランがやっているとは思えなかったからだ。

雨が少し降っていて、パーカーを被ってレストランを探した。

案の定、結構店は閉まっていた。


とりあえず、開いていたピザ屋に入った。なぜかペルーはイタリアンレストランが多い。ピッツェリアとかそういうカジュアルなやつだ。

僕はそこで、小学生くらいの少女が釜で焼いたピザを食べ、「そういえばトルコのパムッカレで食べたピデはおいしかったな」等と思い出していた。

クスケーニャというクスコ産のビールも飲んだ。



壁には大きな油絵がかかっており、マチュピチュの背後から太陽が昇っているシーンが描かれている。

インカ人らしき人物が、その太陽に向かって祈りを捧げている。

そうだ。明日は早起きして、5時半のバスに乗ろう。

ワイナピチュを登るのだ。

 




早朝5:50、僕は出発した。予約していたタクシーで近くのバス停まで行き、バスでクスコからポロイの駅まで向かった。

寒い。気温は12℃だ。Yanさんが言っていたことは確かに正しかった。

同じ頃の東京は20〜25℃くらいだから、やはり高山にいることを感じさせられる。

ポロイ→マチュピチュ村までは、列車「ペルーレイル」で向かう。この列車には、3つの階級があり、一番いいやつは往復で588ドルもする。

・・・さすがに無理なので、2番目の「ビスタドーム」(71ドル)に乗った(というより、予約の段階でこれしか選べなかった。本当は一番下のバックパッカークラスで行きたかった。)

なお、ペルーレイルはネットで日本からも予約できる。人気路線なので予約して行った方が無難だろう。

それにしても、地球の裏側の列車予約ができるようになったとは、世の中便利になったもんである。


ビスタドームには天窓が付いていて、光が上から降り注ぎ開放感がある。席は指定席でこちらからの指定はできないが、運良く眺めがいいとされる進行方向左側に座る事ができた。


 


この「眺め」というのがなかなか面白い。

クスコは3700mという高地だが、マチュピチュ村は海抜2000m。つまり、どんどん高度を下げて行くのであるが、景色の中でそれが本当によく分かるのである。


さて、「景色」と書いたが、景色の「どこ」を見ていればそれが分かるのだろうか?

以下の写真は、クスコからマチュピチュまでを左から順番に示したものであるが、写真を見ながらちょっと予想してみていただきたい。



                                     (1)                                                                                                    (2)                                                                                             (3)

 
 



                                           (4)                                                                                                (5)                                                                                              (6)

 
 




答えは「植物」である。

生えている植物達が、クスコ出発時から刻一刻と変化して行くのである。これはちょっと注意していればすぐに分かる。

初めは水が少なく、寒暖の差が激しい高山の環境にも適合した高山植物、アロエ等の多肉植物が多い。また山肌に注目すると、

植物すら生えていない岩石むき出しの箇所もある(1)(2)。それがやがて、岩石には苔が生えてくるし(3)、植物の数自体も増えてくる。

さらに高度が下がると、やがて樹木(4)やそれにまとわりつく蔦系の植物、それからシダ類が増えてきて、鬱蒼とした密林へと変わって行く(5)。

つまりは熱帯雨林の様相を示し始めるのである。(もちろん、熱帯雨林程は暑くないが)

植物が熱帯雨林様になってくると、ちらほらと遺跡らしきものが見え始める(6)。否が応にも、「マチュピチュ近づいてきました!」という感覚を覚えることになる。


また、変化は外だけでなく、内にも起こる。海抜2000mのマチュピチュ村は、クスコに比べると、酸素濃度が高く、気圧もそこそこで、高山病の呪縛から解かれることになる。

孫悟空が頭の輪っかをはずされたような、「おお!実は、こんなにも元気だったのか!」という確かな感覚がそこにはあった。勝手にテンションも上がってくる。

というわけで、僕はこのペルーレイルを、世界で最も「期待一杯にしてくれる鉄道」と認定したい(勝手に)。


また、相席となったオーストラリア人夫妻やカナダ人の元教授は、車窓の写真を延々と撮り続ける写真マニアの日本人にも寛大で、話していてなかなか楽しかった。

オーストラリア人の旦那さんとは、多少、「リーマンショック後の日本経済」について話し合ったりもした。

(僕の認識は、失業率が下がりつつあり、派遣切り等は盛んに叫ばれているものの、それでも金融と自動車産業が完璧に傾いたアメリカよりはまだマシだろう、というもの。ボーナスは減るけどね。)

 




南米大陸。未踏の地。日本から遠いことや治安のこと等で、これまで避けてきたが、「まぁ、そろそろ行ってもいい頃なんじゃない?」と思えるようになって来た。

帰国してみての感想は「行ってよかった!!」である。

南米は(と言っても、ペルーとボリビアのほんの一部しか体験していないが)面白い。しかも、思っていたより旅もしやすい。

そして何より、空が青く、自然がばかでかくて、遺跡もステキだ。また、結構ヘビーな旅人とも出会える。こんなに「世界一周旅行中」の人と高確率で出会う地もめずらしいのではないか。

「南米」という僕が感じていた敷居の高さの裏返しだろう。


さて、これから旅行記を書いてみようと思う。今回はこれまでと違って、「テキストと写真を組み合わせて、かつ、テキストを増量して」書いてみたい。

そう思うのは、書きたくなることが多いからだ。今回の旅は久々に「大当たり」だった。


 




今回の旅は全旅程で12日間だが、行きに丸一日、帰りに丸2日強かかった結果、現地ではわずか8日間しかいられなかった。

そして、そのうち3日間は夜行バスで寝たのだから、結構ハードスケジュールだったと思う。さらに、高度は3700mから4800m超(!)まで。

つまり、もれなく高山病のおまけまでついてくる・・・というダブルパンチである。フラフラになりながら、それでも必死にかけ回った8日間。

身体的にはきつかったが、終わってみると、精神的には楽しかったなぁという印象である。


4/25(土):成田発、LA経由、リマ着・・・LAでは空港が一時封鎖となり、いきなり焦った。

4/26(日):リマ発、クスコ着。クスコ散策。機内で一緒だったヤジマさんと夕飯。ねずみの肉を喰う。(とか書くと、うわぁと思われそうだが(笑)味は結構、うん。特徴的であった。)

4/27(月):早朝5時50分に出発、列車でてマチュビチュへ。道中、オーストラリア人夫妻とアメリカ人元教授と相席。マチュピチュ山へトライし、見事にフラフラとなった。

4/28(火):早朝5時半のバスでマチュピチュへ。ワイナピチュを登る。インカの橋まで行き、クスコへ。着後、そのままボリビアはラパスへと夜行バス(22時)に乗る。

4/29(水):11時頃ラパス着。そのままバスターミナルでだらだらとし、19時に夜行バスに乗り、ウユニを目指す。夜行バス2連チャンである。めちゃくちゃに寒く、悪路で(かつ臭く)、眠るのに苦労した。

4/30(木):早朝5時半ウユニ着。日本人、ギリシア人、アイルランド人、フランス人とパーティーを組み、ツアー参加。ウユニ塩湖を見物し、ひたすらに感動。なんだここは!

5/1(金)  :音楽(スペイン、ジャマイカ、キューバ、日本)をかけながらランクルは走る。高度4200m。ラグーンを見て、高山病になりながら、コカの葉を噛む。大貧民をやった(負け過ぎ)。

5/2(土)  :噴煙を上げる間欠泉、緑のラグーンを見て、ツアー終了。チリ抜けする日本人とギリシア人に別れを告げ、ウユニへ。そのまま夜行バスにてラパスへと戻る。

5/3(日)  :一番ホテルに宿泊。ラパスで土産を買い、街を見物し、夜は夜景を撮るために、タクシーを一時間チャーター。ラパスの夜景は独特の美しさを持っていた。

5/4(月)  :早朝4時発、6時50分ラパス発、マイアミ経由でダラスへ。機内にてFDA監査官が隣だった(!)日本人二人とも出会い、ダラス空港に泊まる(寒くて腹がやられる)。

5/5(火)  :ダラス10時発。どうにも腹の調子が悪く、とにかく暖かくして眠り続けた。

5/6(水)  :成田13時着。新型インフルエンザの検疫のため、1時間近く機中に拘束される。機中の2名が検査にひっかかった。自分は大丈夫だろうか...?


後日談:5/7(木)時差ボケ(?)で、早朝4時半に目覚める。ホットシャワーとカップヌードルの後、これを書いている。 楽しかった! さて、そろそろ会社に行かなくっちゃな。


 




成田空港にてたこ焼きを食し、「やっぱり日本食はうまいなぁ」としきりに頷く。行く前から気が早いものである(笑)しかし、この「出国前のたこ焼き」はなかなか良かった。

今後習慣にしておこう。


さて、アメリカン航空にて、まず経由地のLAへ向かった。眠ったり本を読んだりしつつ、あっと言う間(約10時間後)にLAに到着。

ここでLAN航空に乗り換えて、ペルーのリマまで行くのだが、どうも様子がおかしい。

出発時刻になっても、それから30分経っても、全然飛行機が飛ばないのである。まぁ、よくあることだろうと思っていたのだが、

何やらスペイン語でアナウンスが始まった。当然、何を言ってるのかよくわからない。しかし、だんだんと周りがざわざわし始めた。

しばらくすると、日本人のツアー添乗員が説明を始めた(僕は個人旅行なので全く面識ない人だったのだが、こういう場面だと非常に助かる)。


「パスポートと航空券だけ持って機外に出てください、とのことです。」


・・・?

意味がわからない。手荷物を置いて行け、ということか?

やや騒然となる機内。仕方ない。とりあえず出るか。と、パスポートと航空券の入った「ポーチ」を持ち、さらに財布とカメラをポケットにつめて、

機外へと出ようとした時に、CAに出口で止められた。


「ポーチは駄目だ。パスポートと航空券を素で持って出てくれ。」


と言う。財布もだめらしい。こうなると、口にはしなかったが、カメラも当然駄目だろう。しかし、・・・やり方がいささか乱暴ではないか?


「おいおい、ちょっと待ってよ。これは一体何をしたいの?目的は何?」


「・・・分からない。」


「分からないって・・・。大体、手荷物検査は終わってるわけだし、改めて調べる必要はないんじゃないか?」


「理由は知らされていない。とにかく協力してくれ。」


一体全体、どうなってるんだ?

大体、CAが理由を知らなかったら、誰が知ってるというのだろう?


もともとリマには深夜24時頃に到着する便である。

それがさらに遅れるとなると、空港で待っている(はずの)ホテルの出迎えが帰ってしまう恐れがある(カンボジアで一度同じ事態に遭遇した)。

深夜にタクシー・・・というのは、強盗に遭うリスクがある。一刻も早く出発してほしいのだが、ここにきて、機内から出ろと。しかも理由は不明、である。


「理由は?」


としつこく聞いていると、


「だったらもう、外に警官がいるから、彼らと直接話してほしい。」


と言い出した。


(警官!? ・・・本当に何が起こっているんだ?)


どうやら事態は、「航空会社の不備」程度の話ではないようだ。指示を出しているのが航空会社や空港ではなく、公安らしい。

釈然としないものの、カメラは諦め、パスポートと航空券と、やっぱり財布は隠し持ち(笑)、機外に出た。乗客全員が降ろされ、ゲートは人だかりになっている。

確かに、入り口付近に「Los Angels」と書かれた警官2名が立っていた。傍らには、捜査犬が二匹。


(どうやら麻薬か何かの捜査らしいな。)


と思った。通りで「理由」や「目的」を明かさないわけである。


(しかし、・・・これはアメリカから「出国」する便だ。麻薬の捜査であれば、「入国」の便を厳しくするんじゃないか?・・・ふーむ。どうにも腑に落ちないなぁ。)


近くにいた白人に話しかけてみる。


「何か知ってる?」


「いや私にも・・・。ただ、空港全体が閉鎖になっているみたいだ。」


(空港閉鎖!?)


「マジで?この便だけじゃなくて空港全体が?」


「そうらしい。」


「となると・・・何を捜査しているんだろう?手荷物に何か『空港を閉鎖させなければならない程のもの』が入っているとか?」


「うーん・・・。」


(そんな大それた物なんて・・・)

僕はしばらく考えて、ひとつだけ思いついた。


「まさか、・・・爆弾じゃないよね?」


その白人は、一瞬目を細めて、あっさりとこう言った。


It can be.」


アメリカは、9.11のテロがあってから、航空管制、とりわけ「航空機を使用したテロの防止」には非常に神経質になった。もし、「爆弾を機内に持ち込んだ奴がいる」等という情報を入手したすれば、

空港の全面閉鎖くらい迷わずやるだろう。こうなると、お手上げである。下手をすると、今日中には出発しないことになるかもしれない。

元々、8日間で二カ国を行く、というキツキツのスケジュールを組んでいたため、この旅はいきなり頓挫してしまうかもしれないな、と思った。

少なくとも、遠く離れた「ウユニ塩湖」は諦めざるを得ないだろう。

しかし、もし「爆弾」のような危険なものであるならば、しっかり捜査してほしい。命がなければ旅はできないのである。

もんもんと考えているところで、アナウンスが流れた。



「乗客のみなさまを機内に案内いたします。」



意外な事に、捜査は迅速に進み、この飛行機は「白」だったらしい。良かった。飛行機は1時間半程遅れて出発した。

ああ、本当に良かった。


リマに到着すると、磯の香りがほのかにした。海が近い証拠だろう。両替を済ませ、出口に来ると、すごい人だかりになっていた。

さて、ホテルの出迎えは来ているか?である。タクシーの客引きを断りながら、ペルー人の群れの中を探し歩く。


いた!

そこには、ホテルのプラカードを持った兄さんが、だるそうに突っ立っていた。

よく待っていてくれた!

「グラシアス!グラシアス!」

と、つたないスペイン語でお礼を言い、ペンションへと無事到着。

宿は、「ペンション当山」。その名の通り、オーナーが「当山」さんという沖縄県出身の方だ。事前にメールで予約でき(しかも日本語でできるのがポイント高い)、

飛行機が遅れてもオーナーはきちんと起きて待っていてくれた。信頼できる宿、と言えると思う。

さっそく風呂に入り、ベッドへと潜り込んだ。AM2:15である。それでいて明日は早く、6時に起きて、クスコに向かう。

いきなり体力的にしんどい幕開けとなった。


 




寝不足気味になりながら、朝8:25発のクスコ行きの飛行機に搭乗。隣には、Yanさんというペルー人が座っていた。彼は、英語を解さなかったが、ゆっくりとしたスペイン語で

「リマは、暑いけど、クスコは、寒いよ。」と教えてくれた。とりあえず、高地だから、のようだ。(実際には、昼間は特段寒くなかったが。)

クスコは海抜3700mの高地である。富士山の山頂と同じくらい、と言えば如何に高い場所にあるか想像できると思う。しかし、街は大きく、

また(当たり前だが)現地の人は、普通に生活している。

しかし、高地とは無縁だった旅行者にとっては、「高山病」というしんどいものが待っている。

高山病というのは、酸素の薄さと気圧の低さから、頭痛やめまいが起こったりするもので、感覚としては二日酔いに似ている。

ただし、ひどい場合には肺に水が溜まる「肺水腫」や脳に水が溜まる「脳浮腫」なる恐ろしい状態も引き起こすため、甘く見るのは危険だ。

症状には個人差があり、全然ならない人もいるらしいし、ひどくて動けなくなる人や、緊急で低地に移動する必要が出てくる人もいるらしい。

僕には高山病の経験はないため、「自分が果たしてどれくらい高山病になりやすいのか?」全く分からなかった。しかも一人旅であるため、倒れたらそれこそ一大事である。

このため、クスコ到着後は、「できるかぎり、おじいちゃんのようにゆっくりと動こう」と決めていた。特に、初日に動き回った人が、高山病になりやすいからだ。

症状は到着から3〜6時間程で出るらしいので、とりあえず、それまでは様子見を決め込むつもりでいた。


空港に到着すると、ツーリストインフォメーションらしきものがいくつかあった。

今日やらなければならない事。

それは、

・今日の宿をとること。(今日一日はクスコで過ごし、明日、マチュピチュへと出発する)

・マチュピチュへの列車が出る「ポロイ」という駅までの足(早朝なのでタクシー)を予約する事。

・明後日、マチュピチュからクスコに戻った足で、そのまま夜行でラパスに抜ける旅程を組んでいる。クスコ到着は20時半でバスは22時には出るので、今日、なんとしてもこのバスをとりたい。

の三点だった。

空港のツーリストインフォメーションは、なかなかの優れもので、上記三点を全て手配できた。

(手数料は10ドル程度入っているので、お金を節約したい人にはおすすめできないが、僕のように多少のお金より時間を優先する「社会人旅行者」にとってはありがたいものである)

ということで、離れたバスターミナルに行ったり、宿を探して(高山病になりながら)街を歩き回ったり、ということもなく、あっさりと手配を終了できた。

うーむ。想像していたよりも、クスコは便利である。

さて、宿まで車で送ってもらい、荷物を下ろす。

宿は「Qory Inti Hostel」というシングル1泊25ドルの宿。バス、トイレ付きである。特に高級でもなんでもないが、天窓がついていて、ベッドに寝っ転がりながら空を眺められた。


                                                                         






「青いなぁー。」


ようやく、旅が始まった気がした。

 




さて、とりあえず街の中心である「アルマス広場」に向かった。


 
  


ペルーの街を見るのは初めて(リマは深夜と早朝過ぎてほとんど見れていない)だったが、なるほど「スペイン」の面影が至る所にある。

というか、ここはスペインだ。噴水があり、草花が植えてある洒落た広場があり、それを囲むようにして、あの「カテドラル」(大聖堂のこと)と教会がそびえ立つ。

ひとびとは広場に集まり、道は石畳で・・・僕はこういったスペインの街並が好きだ。

その一方で、空は南米(かつ高山地域)に特有の真っ青!な空。

街行く人々は、どこかアジアに通ずる顔立ち。そんなに数は多くないが、伝統的な衣装(やたらと派手)を身につけたおばあちゃんがポツポツと歩いている。


自然に属するものは、南米。

街に属するものは、スペイン。


という取り合わせ。「南米大陸にスペインがダウンロードされた」かのような街だ。


「これが、クスコかぁ。」


気に入った。

ただし,アルマス広場周辺の食堂は結構、日本と同じくらいの値段がする(昼飯で30sol=9ドル=900円くらい)。=ツーリスティックな、かなり高い食事と言える。

ということで、欧米のバックパッカーの中には、「クスコは好きじゃない。」と言うものもいた。まぁ、旅人もそれぞれってことだろう。

(ちなみに、アルマス広場からある程度離れると、スープとメインで8.5sol=260円という店もあったので、探し方次第とも言える。)


ちなみに、食べたのはアルパカのステーキである。うむ。淡白である。食後は、南アフリカ原産のコカ茶。言わずと知れた「コカイン」の原料であるが、茶として飲む分には依存性や幻覚作用はない。

なお、コカ・コーラの「コカ」もこれである。初期のコカ・コーラにはコカの麻薬成分が入っていたそうだが、今はない。


 



昼食後、僕は思いつくままに、街をさまよった。アルマス広場を中心に、カテドラルを見て、ラ・コンパニーア・デ・ヘスス教会を横目に見て、宗教博物館の12角の石と14角の石を見た(おきまりである)。


 
 


この12角の石というのは、インカ帝国時代に作られたそうで、明らかにその上に立つ建物と石の質が異なる。そして、その石組の精巧さは驚きに値するレベルだ。

もっとも、「カミソリの歯も通らないほど精密に組まれている」というよく見る形容は少し間違っていて、所々、「はさみの歯」が入るくらいの隙間はあった(笑)恐らく、地震の影響だろう。

ちなみに、そんな街にもマクドナルドはあった。相変わらず、ものすごいカバー率である。景観に気を使い、派手な色を使っていないところが京都のマクドナルドに通じるものがある。


一通り歩き回った後、土産にあやしいアルパカの石像を買い、インカ博物館でプレインカ時代の木像なんかを見て、宿へと戻った。

このとき、すでに、ものすごく頭が痛くなっていた(笑)

「そんなに動いていないのになぁ」とぼやきながら、やっぱり高山病になってしまったかと若干後悔。仕方ないので、少し寝ることにした。

6時半くらいだったろうか。むっくりと起き出し、再び外へと出た。


実は、LAN航空でロサンゼルスからリマまで行く際に、ヤジマさんという日本人旅行者とお隣だった。

LA空港の一時閉鎖で緊張を供にしたのも何かの縁、ということで、クスコで夕食を一緒に取ろうということになっていたのだ。


アルマス広場に面したレストランで、テラス席に座る。

夜のライトアップされたアルマス広場が眼前に広がっている。






そんなロマンに満ちた街並を前にして、選んだ料理は・・・





ネズミの丸焼きだった(笑) 景色とのギャップがすごい。

このネズミは、「クイ」と呼ばれており、ペルーの伝統料理とのこと。やっぱりこういうのは押さえておかないとね。

肉は香辛料につけ込んでいるらしくスパイシーで、噛みごたえがあり、そのグロテスクな外観の割においしかった。

しかし、この肉はこれまで食べた肉のどれにも属していないな、と思った。牛、豚、鳥、馬、羊、カエル、インパラ、イボイノシシ、・・・どれも形容するにはしっくりこない。

ああ、でも今思うと、ウサギの肉に少し似ていたように思う。そんなかんじである(ウサギを食べたことがある人にしか伝わらないが(笑))。


夕方に眠って少し楽になっていたが、どうやら高山病と言うのはなかなか完治しないらしい。鈍い頭痛は続いていた。

しかし、そんな頭痛を忘れる程、クスコでの夕食は充実したものだった。ヤジマさんに感謝である。


夕食を楽しんだ後、高台へと向かった。クスコの夜景を見るためである。





「すごい。」


クスコの夜景は、ひたすらに美しかった。

クスコの街は左下の写真のように山の斜面にまで広がっている。このため、夜になると山を駆け上るような無数の光を見る事ができるのだ。



 
 



夜のクスコをうろうろするのは、少し危ないかもしれない(というか、運が悪ければ本当に危ない)。けれど、幸いにも何も無く、夜のクスコを眺めることができた。これも、感謝である。


さて、正直に白状すると、僕がクスコを満喫できたのはこの一日だけだった。

名残惜しさを感じていたが、僕は僕が決めた旅程を守る事にした。

翌日、早朝からマチュピチュへと向かったのである。


 




マチュピチュ村へとやってきた。

なるほど、世界的な観光地だけあって、土産物の露天が延々と続いている。村は、切り立った山のふもとにあり、周囲を山に囲まれている。


 


とりあえず宿へと向かい、荷を下ろした後、休むこと無くさっそくマチュピチュへと向かった。

マチュピチュ村とマチュピチュの入り口はバスで30分程。ハイラム・ビンガム ロードという山の斜面をじぐざぐに進む未舗装の道を行く。

ちなみに、この「ハイラム・ビンガム」というのは、マチュピチュを発見したアメリカの探検家の名前で、彼はインディージョーンズのモデルになったと言われている。


車中、僕は自分がマチュピチュで使える時間を計算していた。

入り口に着くのは12時頃、帰りの最終バスは、17時半であることから、5時間半程の時間があることになる。

また、明日は、開園の6時とともに入るとして、帰りの列車に間に合うためには16時には出た方がいい。とすると、約10時間。

つまり、二日間で合計15時間半が、マチュピチュで過ごせる時間となる。

これは、恐らく、一般的なツアー客よりも大分長いはずだ。


「その分、十二分に満喫してやろう。」


と決めた。

バスはハイラム・ビンガム ロードを進んで行く。じぐざぐ、と折り返す度にぐんぐん高度は高くなってくる。

車窓には、バスから見たとはちょっと思えない、切り立った山々が広がっていた。




思っていたよりも、ハイラム・ビンガム ロードは長く、傾斜もきつかった。


「よくもまぁ、ハイラム・ビンガムはこの山を登ったもんだな。遺跡がある、なんて知らなければ、

 いや、遺跡があるなんて『信じて』いなければ、きっと登る事を諦めてしまっただろうな。」


そんな風に思えた。それくらい、景色は切り立っていたのである。

マチュピチュの入り口にたどり着くと、まず、昼食をとった。シーチキンとアボガドのハンバーガーのようなものだったが、これで30sol(9ドル)ということで、やっぱり高い。





しかし、である。実は、この別段ペルー料理とも何とも言えないものが旨いのである。下手したら、今回の旅で一番うまかったかもしれない(笑)

英気を養い、いざ出陣!


まずは、「見張り小屋」と言われるポイントを目指した。



文字通り、見張りができる程、マチュピチュ全体を見る事ができるポイントである。

入り口からまっすぐ進み、すぐ左のブッシュの中を進んで行くと、程なくしてそのポイントに到着した。

待っていたのは、マチュピチュの全体、そのものであった。






ほぅっ・・・



と息をついてしまう。

見とれる、ということはこういうことなんだろう。 僕は、マチュピチュを前に、茫然と立ち尽くし、しばしの間、眺めていた。


マチュピチュ村は、山のふもとにある。

マチュピチュ村と、マチュピチュとの高度差は400m。

その400mというのも、かなりの急勾配で、マチュピチュという都市を外界から遮断するのに十分な効果を持っている。

マチュピチュは、その崖によって遮断された山の上に、ドンッと鎮座していた。

そして、周りを見渡してみよう。







マチュピチュの周りを近衛兵のように取り囲む、さらに一段高い山々がある。まるで屏風のように、マチュピチュを囲み、守っている。

なるほど。

僕には風水の知識はないが、この都市をなぜここに造ったのかが分かった気がした。

確かに、ここは「自然に守られた空間」だ。

遠くにいる外敵は、周囲の山々に囲まれたこの場所を、肉眼で確認することはできないだろう。

また、たまたま近くを通った外敵も、恐らく、ふもとのマチュピチュ村付近は通るだろうが、わざわざこの山の頂上まで来ようとはしないだろう。

それに、山のふもとから見上げても、あまりにも急勾配過ぎて、マチュピチュ本体の姿は視認できないはずだ。


「見つからないこと」


それは最大の防御壁になる。

これがもし、中途半端に、そう例えば山のふもとから山の斜面にかけて、都市を造ったらどうなるか?

たまたま通りかかった者にも簡単に見つけられてしまうだろう。

要するに、ここは真の意味で「隠れ里」だったのだ。


さて、「マチュピチュがなぜ造られたのか?」ということには、いくつか説がある。

そして、「いくつか説がある」ということは、裏を返せば、本当の事は誰にも分かっていないということでもある。

というのも、このインカという文明は、文字を使わなかったのである。そのため、口伝と状況証拠からしか史実に迫れず、その結果、

「そもそもなんでこんな建造の難しい場所に、わざわざでっかい都市を造ったのか?」という基本的な質問にも満足に答えられないのだ。


正解が分からないのなら、勝手に推測してもよかろう。

と僕は思った(笑)

僕はマチュピチュを前に見据えながら、「なんでインカ人はここに都市を造ったのか?」を考えてみた。

「サイコメトラーEiji」ばりに(笑)

以下、その「妄想」の概要である。(飛ばし読みしてください(笑)完璧なる妄想です。)


☆〜妄想スタート〜☆

まず、マチュピチュの成立時期は15世紀中頃〜16世紀前半とされている。しかし、その一方で、遺跡の最も古い部分は2000年前に建造されていたとする説もあり、

成立時期自体に謎が多い。しかし、その謎に独断で推論を展開してみると、まず思いつくのは、マチュピチュが都市として誕生する以前から、

この「山」そのものが土着宗教の信仰対象であったのではないだろうか?ということである。

マチュピチュ、という都市がない時代であっても、この特殊な地形(周囲の山にぐるりと囲まれ、その山脈の中心に位置している)と、太陽に向かいそびえ立つ姿は、

十分に神々しい何かを感じさせる。

インカ帝国は太陽信仰をベースにしており、インカ帝国以前の社会も恐らく土着の宗教は少なからず太陽信仰を内包していただろう。マチュピチュを前にすると、

実にこの地形は、「太陽信仰にうってつけ」だろうと感じさせられる。僕の推論としては、インカ帝国がこの地を治めるずっと以前(つまりは2000年近く前)から、

恐らく周辺に集落が在り(マチュピチュ村のように山のふもとの川付近に)、その人々が宗教の場として、この地に原始的な「神殿らしきもの」を築いていた。

その集落がいつ滅びたのか、インカ帝国の配下になったのか、それはわからないが、少なくともインカ帝国がこの地に都市を造る以前から、

「そういう神聖な場所がある」ということは知られていたものと考える。また、その地にあった遥か昔に造られた「神殿らしきもの」は、

インカ帝国がマチュピチュを築く際に壊す事無く、むしろ積極的に都市の一部分として組み込まれていったものと考える。

このことが、後に「成立時期の謎」として、現代の考古学者を悩ませる種となった。

このように考える理由は単純で、まずマチュピチュは建築材を運び上げるのも難しい場所にあるため、既にあるものは極力生かした方が楽だということ、

それから、クスコで見たように「石造り」の壁や石垣を壊さずにそのまま流用するということは、割と世界中で見られる現象であるから、ということだ。

(例:スペインのセビーリャにあるカテドラルは、イスラム教のモスクを流用して建てられている)


さて、時は移り、15世紀。インカ帝国はその勢力を拡大し、9代皇帝のパチャクティの頃には、このマチュピチュの地もインカ帝国の領土となった。

パチャクティは、この地を訪れた時、さぞかし嬉しかっただろう。


「この地は、太陽に愛されているのではないか。」


そんなことをつぶやいたかも知れぬ。


さて、インカ帝国の中心であるクスコから、この地にやってきてみると、実に自然が豊かであることに気づく。鬱蒼とした密林でありながら、

湿度はそれほど高くなく、寒さや寒暖の差もクスコ程ではない。つまり、人間の身体にとって、「ちょうどいい」気候であった。さらに、ここは水が豊富だ。

遺跡を巡ってみると、いくつか水路を見る事ができる。そこに流れる水は、花崗岩主体の山により自然濾過されており、透き通る程きれいである。

つまり、飲料水として適しているのだ。

これだけ隔絶された場所でありながら、その「中」だけで、「生活できそう」と思わせるだけの条件が揃っている。

さらに、高山の植物達は花を咲かせ、木々は青々としていて、なんだか立っているだけで気持ちいいのである。


また、地政学的にもこの場所は優れている。前述したように、遠くの外敵も近くの外敵もその存在を容易には知ることができない。

自然が作り上げた最高の防御壁が、そこには在るのである。


「素晴らしい!」


宗教的に見ても、生物学的に見ても、また地政学的に見ても、どう考えてもここは素晴らしいのである。


さて、度重なる遠征と国内の政治、陰謀に疲れ果てた皇帝パチャクティは、こう思うのである。


「生きとし生けるものすべてが、敵におびえる事無く、平和に、美しく、明るく、楽しく暮らせる。幸福と善意と優しさと愛に満ちた世界を、ここに造ろう。」


それは、インカ人にとっての「理想郷」の実現であった。

この考えに共鳴した人々は、皇帝の命令、というだけでなく、「理想郷の実現」という使命感を持ってこの都市の建造に勤しんだに違いない。

宗教的使命感が、人間を強くする(強くしてしまう)ことは、(時に幸福を生み出し、時に戦争をも生み出すが)もはや人類の歴史の中で自明と言える。

しかし、その使命感がなければ、正直言って、こんな都市をこんな困難な場所に築くことはできないだろう。

恐らく、都市建造中に、不幸にも死んだ人間はいるだろう。その数も、相当なものだったはずだ。しかし、「理想郷の実現」の神通力は、奇跡を起こした。


マチュピチュの完成である。






・・・というわけで、「なぜマチュピチュをこんな建造しにくい場所にわざわざ造ったのか?」という疑問に対する僕なりの答えは、

「軍事目的の要塞を造るためではなく、宗教的、人間的な理想郷を実現するために造った。」

となる。

また、「こんなに建築に向かない困難な場所に、どうやって都市を造ったのか?」という疑問には、

「理想郷の実現という宗教的な使命感に燃えた、インカ人達の純粋で熱い情熱が、全ての困難を乗り越えさせた。」

と答えるだろう。


もちろん、12角の石に代表されるようなインカ人の類い稀なる「石積みの技術」がなければ、結局は実現しないものであったに違いない。

しかし、インカ帝国はクスコに見られるように、「石積みの技術」にかけては世界でも類を見ない程高度な技術力を誇っていた。


ところで、マチュピチュには、一般人の住宅、貴族の住宅、王の住居、と並んで、「技術者の住宅」という一角がある。

ここで言う「技術者」というのは、「石積みの技術者」のことだろう。

わざわざ遺跡の一角として紹介される程、存在感を持って(つまり、一般人の住居と区別されて)「技術者」が住宅を構えていたという事実は、実に面白いと言えるのではないか。


技術大国日本にも様々な「技術者」がいる。

そして、日本経済の中で非常に重要な役割を果たしている。

しかし想像してみてほしい。仮に、日本が滅んだとしても、「東京遺跡」には残念ながら「技術者の住宅」なんてものは存在しないだろう。

一般人の住宅として紹介されるのがオチだ。

このことは、インカ帝国で「石積みの技術者」がかなりの「社会的尊敬を集めた階級」であったことを暗に示していると考えられる。


それもそのはずである。マチュピチュという理想郷を実現した、最大の功労者なのだから。


恐らく、その存在は「英雄」に近い。


日本も、優れた「技術者」には、そんな社会的な尊敬が集まっていいんじゃないか?と考えてしまう


☆〜妄想終了〜☆


・・・とまぁ、たいした知識もなく、眼前の光景と想像力だけを頼りに、妄想を膨らませていた。しかし、過程はどうであれ、この遺跡が「奇跡の賜物」であることは間違いない。

ここに来る事ができて、本当によかった。

僕は、目の前の「遺跡」を通して、かつてそこに在った「理想郷」を見ていたように思う。

 


つづく!Peru2.2.htmlshapeimage_1_link_0